1954年日本電気産業労働組合が組合歌を募集して第一位となったのがこの「しあわせの歌」でした。作詞者の「石原」さんは広島の原爆の被爆者、母親と姉・弟を失い組合員の支えで生きてこられたそうです。 戦後の復興の中で、懸命に働く人々と自分自身への応援歌として書いた詩に「「原爆を許すまじ」を作曲した「木下」さんが曲を付けNHKの「みんなのうた」またフランキー堺・左 幸子さん出演で映画「しあわせは俺らのねがい」が上映され全国へ広まっていきました。 《 しあわせは俺らのねがい 仕事はとっても 苦しいが 流れる汗に 未来をこめて 明るい社会をつくること みんなで歌おう しあわせの歌を ひびくこだまを 追って行こう 》 汗水たらして働くことが大切なことと思わない昨今の風潮に不安を覚えざるを得ない今日この頃です。大島
2010年10月31日
歌ごえはこころの旅 日本の歌編
NO188 「しあわせの歌」 作詞石橋 健治 作曲木下 航二
1954年日本電気産業労働組合が組合歌を募集して第一位となったのがこの「しあわせの歌」でした。作詞者の「石原」さんは広島の原爆の被爆者、母親と姉・弟を失い組合員の支えで生きてこられたそうです。 戦後の復興の中で、懸命に働く人々と自分自身への応援歌として書いた詩に「「原爆を許すまじ」を作曲した「木下」さんが曲を付けNHKの「みんなのうた」またフランキー堺・左 幸子さん出演で映画「しあわせは俺らのねがい」が上映され全国へ広まっていきました。 《 しあわせは俺らのねがい 仕事はとっても 苦しいが 流れる汗に 未来をこめて 明るい社会をつくること みんなで歌おう しあわせの歌を ひびくこだまを 追って行こう 》 汗水たらして働くことが大切なことと思わない昨今の風潮に不安を覚えざるを得ない今日この頃です。大島
1954年日本電気産業労働組合が組合歌を募集して第一位となったのがこの「しあわせの歌」でした。作詞者の「石原」さんは広島の原爆の被爆者、母親と姉・弟を失い組合員の支えで生きてこられたそうです。 戦後の復興の中で、懸命に働く人々と自分自身への応援歌として書いた詩に「「原爆を許すまじ」を作曲した「木下」さんが曲を付けNHKの「みんなのうた」またフランキー堺・左 幸子さん出演で映画「しあわせは俺らのねがい」が上映され全国へ広まっていきました。 《 しあわせは俺らのねがい 仕事はとっても 苦しいが 流れる汗に 未来をこめて 明るい社会をつくること みんなで歌おう しあわせの歌を ひびくこだまを 追って行こう 》 汗水たらして働くことが大切なことと思わない昨今の風潮に不安を覚えざるを得ない今日この頃です。大島
歌ごえはこころの旅 日本の歌編
NO187 「心はいつも夜明けだ」 作詞永山 孝 作曲荒木 栄
1961年九州うたごえ祭典の第一位となった「心はいつも夜明けだ」原題は「心にゃ夜はない」は、旋盤工で詩人の「永山 孝」さんが自分も含めて、労働者の見通しのない毎日の労働に希望と夢を持ってがんばって行こうと書いた詩が「心にゃ夜はない」でした。 この年の2月には石炭政策の変更を要求して全国の炭鉱労働者は一斉にストライキ、3月に福岡上清炭鉱で坑内火災で71人が亡くなっています。 3月には全国の赤十字病院の労働者が無期限ストライキまた大阪釜ゲ崎では仕事と食料を求めて暴動などがあり、重苦しい時代でありました。 《 夕陽がよごれた 工場の屋根に 沈めば俺たちゃ 町に散らばる 若者や娘たちの 胸に灯をともしに 心にや夜はない いつも夜明けだ 心にや夜はない いつも夜明けだ 》 これに曲を付けたのが「荒木 栄」さんでした、 荒木さん自身も三井三池炭鉱の機械組立工として炭鉱で働いていました。 荒木さんは共に働き闘った仲間やそれを支える妻や子供たちへの愛情あふれる応援歌を亡くなる直前まで作っておられましたが、38才の若さでこの世を去っていきました。 大島
1961年九州うたごえ祭典の第一位となった「心はいつも夜明けだ」原題は「心にゃ夜はない」は、旋盤工で詩人の「永山 孝」さんが自分も含めて、労働者の見通しのない毎日の労働に希望と夢を持ってがんばって行こうと書いた詩が「心にゃ夜はない」でした。 この年の2月には石炭政策の変更を要求して全国の炭鉱労働者は一斉にストライキ、3月に福岡上清炭鉱で坑内火災で71人が亡くなっています。 3月には全国の赤十字病院の労働者が無期限ストライキまた大阪釜ゲ崎では仕事と食料を求めて暴動などがあり、重苦しい時代でありました。 《 夕陽がよごれた 工場の屋根に 沈めば俺たちゃ 町に散らばる 若者や娘たちの 胸に灯をともしに 心にや夜はない いつも夜明けだ 心にや夜はない いつも夜明けだ 》 これに曲を付けたのが「荒木 栄」さんでした、 荒木さん自身も三井三池炭鉱の機械組立工として炭鉱で働いていました。 荒木さんは共に働き闘った仲間やそれを支える妻や子供たちへの愛情あふれる応援歌を亡くなる直前まで作っておられましたが、38才の若さでこの世を去っていきました。 大島
2010年10月19日
歌ごえはこころの旅 日本の歌編
NO186 「心の歌」 作詞・作曲関 忠亮
シベリアに抑留されていた「関 忠亮」さんが帰国して見た日本国は荒れ果てていましたが、帰り着いた故郷の山や川は昔と変わらず懐かしい日本の風景を見せ自然を人を愛し敬うことの大切さを教えてくれました。 そのことがこの「心の歌」の誕生につながっていきました 《 ふるさとの山を見よ もみじ色はえて 故郷の川面は写す 清きその影 故郷の川面は写す 清きその影 》 また 関さんは働く人たちへの応援歌「世界をつなげ花の輪に」など多くの曲を書かれ、「シベリウス」の名曲「フィンランディア」の訳詩者として知られています。 ご存知の方もおられることと思いますが「関 忠亮 せき ただすけ」は中央合唱団の創立、歌声喫茶へと続く音楽センターの主宰者「関 鑑子 せき あきこ」さん本名小野鑑子さんの弟さんでもあります。 大島
シベリアに抑留されていた「関 忠亮」さんが帰国して見た日本国は荒れ果てていましたが、帰り着いた故郷の山や川は昔と変わらず懐かしい日本の風景を見せ自然を人を愛し敬うことの大切さを教えてくれました。 そのことがこの「心の歌」の誕生につながっていきました 《 ふるさとの山を見よ もみじ色はえて 故郷の川面は写す 清きその影 故郷の川面は写す 清きその影 》 また 関さんは働く人たちへの応援歌「世界をつなげ花の輪に」など多くの曲を書かれ、「シベリウス」の名曲「フィンランディア」の訳詩者として知られています。 ご存知の方もおられることと思いますが「関 忠亮 せき ただすけ」は中央合唱団の創立、歌声喫茶へと続く音楽センターの主宰者「関 鑑子 せき あきこ」さん本名小野鑑子さんの弟さんでもあります。 大島