世界最初のコマーシャル・ソングと言われている「フニクリ・フクラ」は世界中で歌われています。 日本で企業のコマーシャル・ソングが多くの人に歌われていると言うことはあまり例がありません。 しかしこの「この木なんの木」歌声でも歌い継がれていると言うことは、この歌が持つ暖かい幸せな気持ちにさせる詩と、楽しくそして優しくさせてくれるメロディーにあると言えるでしょう。 1973年に初めてテレビのCMで流された「この木なんの木」の原題は「日立の樹」ですが、歌詞の歌い出しにある「この木なんの木 気になる・・・・ 」の「この木なんの木」が別題になっていきました。 この樹は日立グループの総合力と成長を木に例えているそうです、これまで4本の樹木を使っています。第1代はアニメで作った木でしたが、第2代からハワイオアフ島のモアナルア・ガーデンパークにある樹齢130年、高さ25m、幅40m、幹周り7mのアメリカネムの「モンキーポッド」、第3代はオアフ島のマンゴーの木、第4代はシンガポールのバニヤシツリー、第5代はロスアンジェラスのカリフォルニアオーク、そして第6代から第二代のモンキーポッドに戻っています。 作詞の「伊東アキラ」さんは知る人ぞ知ると言われている方、これまで「かもめが飛んだ」など歌謡曲からCMまで1,000曲以上の作詞をされています。 作曲の「小林亜星」さんは外見では想像もできないほど繊細な方、多くの曲を書いておられます。 大島
2010年12月03日
歌ごえはこころの旅 日本の歌編
NO191 「この木なんの木」 作詞伊東アキラ 作曲小林 亜星
世界最初のコマーシャル・ソングと言われている「フニクリ・フクラ」は世界中で歌われています。 日本で企業のコマーシャル・ソングが多くの人に歌われていると言うことはあまり例がありません。 しかしこの「この木なんの木」歌声でも歌い継がれていると言うことは、この歌が持つ暖かい幸せな気持ちにさせる詩と、楽しくそして優しくさせてくれるメロディーにあると言えるでしょう。 1973年に初めてテレビのCMで流された「この木なんの木」の原題は「日立の樹」ですが、歌詞の歌い出しにある「この木なんの木 気になる・・・・ 」の「この木なんの木」が別題になっていきました。 この樹は日立グループの総合力と成長を木に例えているそうです、これまで4本の樹木を使っています。第1代はアニメで作った木でしたが、第2代からハワイオアフ島のモアナルア・ガーデンパークにある樹齢130年、高さ25m、幅40m、幹周り7mのアメリカネムの「モンキーポッド」、第3代はオアフ島のマンゴーの木、第4代はシンガポールのバニヤシツリー、第5代はロスアンジェラスのカリフォルニアオーク、そして第6代から第二代のモンキーポッドに戻っています。 作詞の「伊東アキラ」さんは知る人ぞ知ると言われている方、これまで「かもめが飛んだ」など歌謡曲からCMまで1,000曲以上の作詞をされています。 作曲の「小林亜星」さんは外見では想像もできないほど繊細な方、多くの曲を書いておられます。 大島
世界最初のコマーシャル・ソングと言われている「フニクリ・フクラ」は世界中で歌われています。 日本で企業のコマーシャル・ソングが多くの人に歌われていると言うことはあまり例がありません。 しかしこの「この木なんの木」歌声でも歌い継がれていると言うことは、この歌が持つ暖かい幸せな気持ちにさせる詩と、楽しくそして優しくさせてくれるメロディーにあると言えるでしょう。 1973年に初めてテレビのCMで流された「この木なんの木」の原題は「日立の樹」ですが、歌詞の歌い出しにある「この木なんの木 気になる・・・・ 」の「この木なんの木」が別題になっていきました。 この樹は日立グループの総合力と成長を木に例えているそうです、これまで4本の樹木を使っています。第1代はアニメで作った木でしたが、第2代からハワイオアフ島のモアナルア・ガーデンパークにある樹齢130年、高さ25m、幅40m、幹周り7mのアメリカネムの「モンキーポッド」、第3代はオアフ島のマンゴーの木、第4代はシンガポールのバニヤシツリー、第5代はロスアンジェラスのカリフォルニアオーク、そして第6代から第二代のモンキーポッドに戻っています。 作詞の「伊東アキラ」さんは知る人ぞ知ると言われている方、これまで「かもめが飛んだ」など歌謡曲からCMまで1,000曲以上の作詞をされています。 作曲の「小林亜星」さんは外見では想像もできないほど繊細な方、多くの曲を書いておられます。 大島
歌ごえはこころの旅 日本の歌編
NO190 「世界をつなげ花の輪に」 作詞篠崎 正 作曲箕作 秋吉
1886年5月1日「8時間の労働」「8時間の休息」「8時間の教育」をスローガンにしてアメリカのシカゴで世界で最初のメーデーが開かれました。元々メーデーとは「MAY DAY」5月1日に行った西洋の春の祭のこと、これにシカゴの労働者たちは自分達の労働条件の改善を求めプラカードを掲げて集まったことがメーデーの始まりとなりました。 日本では1905年「平民社」が「メーデー茶話会」として集会を開き、早稲田大学の教職員たちが「労働者講話会」を開き、これらがきっかけとなり、「友愛会」「信友会」などが労働組合同盟会を結成、日本での労働運動のさきがけとなって行きました。
第16回のメーデーを最後に1936年昭和11年政府によりメーデーは禁止されました。この年皇道派の青年将校たちにより2・26事件が起き、これから日本は戦争への道を一直線に突き進んで行きました。 そして1945年の敗戦、翌1946年昭和26年5月1日第17回のメーデーが復活しました。それに先立ち、新しい労働歌が募集され、第一位に「町から村から工場から」、第二位に入ったのがこの「世界をつなげ花の輪に」であります。 作詞家の「篠崎 正」さんのことはよく分かっていませんが、作曲の「箕作秋吉」さんはクラシックの作曲家として活躍され、管弦楽「芭蕉紀行集」などで知られた方であります。 現在の労働組合はどうなってしまったのでしょうか、不景気をはじめ失業や物価高・年金の減額と増税など国民の苦しみや嘆きは聞こえないのでしょうか、僕は思うのですが本来テレビ・新聞などのマスコミや労働組合は政治をチェックし、国民に真実を知らせ国民の苦しみを政策に生かすよう為政者に働きかけることが主要な任務ではないでしょうか、ましてや労働組合が政権に関わるなどあってはならないと思いますがみなさんはどう思われますか、 大島
1886年5月1日「8時間の労働」「8時間の休息」「8時間の教育」をスローガンにしてアメリカのシカゴで世界で最初のメーデーが開かれました。元々メーデーとは「MAY DAY」5月1日に行った西洋の春の祭のこと、これにシカゴの労働者たちは自分達の労働条件の改善を求めプラカードを掲げて集まったことがメーデーの始まりとなりました。 日本では1905年「平民社」が「メーデー茶話会」として集会を開き、早稲田大学の教職員たちが「労働者講話会」を開き、これらがきっかけとなり、「友愛会」「信友会」などが労働組合同盟会を結成、日本での労働運動のさきがけとなって行きました。
第16回のメーデーを最後に1936年昭和11年政府によりメーデーは禁止されました。この年皇道派の青年将校たちにより2・26事件が起き、これから日本は戦争への道を一直線に突き進んで行きました。 そして1945年の敗戦、翌1946年昭和26年5月1日第17回のメーデーが復活しました。それに先立ち、新しい労働歌が募集され、第一位に「町から村から工場から」、第二位に入ったのがこの「世界をつなげ花の輪に」であります。 作詞家の「篠崎 正」さんのことはよく分かっていませんが、作曲の「箕作秋吉」さんはクラシックの作曲家として活躍され、管弦楽「芭蕉紀行集」などで知られた方であります。 現在の労働組合はどうなってしまったのでしょうか、不景気をはじめ失業や物価高・年金の減額と増税など国民の苦しみや嘆きは聞こえないのでしょうか、僕は思うのですが本来テレビ・新聞などのマスコミや労働組合は政治をチェックし、国民に真実を知らせ国民の苦しみを政策に生かすよう為政者に働きかけることが主要な任務ではないでしょうか、ましてや労働組合が政権に関わるなどあってはならないと思いますがみなさんはどう思われますか、 大島
2010年10月31日
歌ごえはこころの旅 日本の歌編
NO189 「青春」 作詞門倉 さとし 作曲じぬし みきお
1972年作詞家の「門倉」さんがうたごえ新聞にこの詩を発表し曲の創作を呼びかけたところ、30曲以上もの曲が集まりました、その中の「じぬし」さんの曲が「門倉」さんの描いていたメロディーでありました。 「門倉」さんは作詞家になるまでに、土方や人夫などの仕事をされ世の中の理不尽さを身をもって経験されたそうです、そんな中でも決して希望を無くすことなく心は燃え滾っていました。 その思いがこの詩となったそうです 《 川にそって走った どこまでも わけもなく 泣きながら 真赤な夕日が 燃えてしまわぬうち あの真ん中に 飛び込んでゆきたい なくしたくない この燃え上がる 熱いもの 生きてゆくのが 辛くなっても 》 発表されるやこの「青春」はまたたくうちに全国の歌声喫茶で歌われ広まってて行きました。 大島
1972年作詞家の「門倉」さんがうたごえ新聞にこの詩を発表し曲の創作を呼びかけたところ、30曲以上もの曲が集まりました、その中の「じぬし」さんの曲が「門倉」さんの描いていたメロディーでありました。 「門倉」さんは作詞家になるまでに、土方や人夫などの仕事をされ世の中の理不尽さを身をもって経験されたそうです、そんな中でも決して希望を無くすことなく心は燃え滾っていました。 その思いがこの詩となったそうです 《 川にそって走った どこまでも わけもなく 泣きながら 真赤な夕日が 燃えてしまわぬうち あの真ん中に 飛び込んでゆきたい なくしたくない この燃え上がる 熱いもの 生きてゆくのが 辛くなっても 》 発表されるやこの「青春」はまたたくうちに全国の歌声喫茶で歌われ広まってて行きました。 大島