よく気象庁が、今年の冬は 「暖冬」 だとか 「厳しい冬」 だとか予報をしていますが、この冬はどう言うのかなー、暑かったり寒かったり、大雪や大風が吹いたり本当に変な冬も彼岸を迎える春となりました。 各地で桜の開花予報が出、大阪は3月25日頃とのこと、暖かいにこしたことはありません。 この 「春よこい」 は新潟県の糸魚川出身の 「相馬」 さんが1924年大正12年、金の鳥社発行の 『雑誌金の鳥』 3月号に発表しました。 「相馬」 さんの娘 「文子」 さん2歳のときの作品、おそらく娘さんのことや故郷の糸魚川のことなど思い浮かべながら書かれたのではないでしょうか、雪国の人たちが繰り広げてきた日常を優しく爽やかに歌っています。 大島
2010年03月19日
歌ごえはこころの旅 日本の歌童謡編
NO23 「春よこい」 作詞相馬 御風 作曲弘田 龍太郎
よく気象庁が、今年の冬は 「暖冬」 だとか 「厳しい冬」 だとか予報をしていますが、この冬はどう言うのかなー、暑かったり寒かったり、大雪や大風が吹いたり本当に変な冬も彼岸を迎える春となりました。 各地で桜の開花予報が出、大阪は3月25日頃とのこと、暖かいにこしたことはありません。 この 「春よこい」 は新潟県の糸魚川出身の 「相馬」 さんが1924年大正12年、金の鳥社発行の 『雑誌金の鳥』 3月号に発表しました。 「相馬」 さんの娘 「文子」 さん2歳のときの作品、おそらく娘さんのことや故郷の糸魚川のことなど思い浮かべながら書かれたのではないでしょうか、雪国の人たちが繰り広げてきた日常を優しく爽やかに歌っています。 大島
よく気象庁が、今年の冬は 「暖冬」 だとか 「厳しい冬」 だとか予報をしていますが、この冬はどう言うのかなー、暑かったり寒かったり、大雪や大風が吹いたり本当に変な冬も彼岸を迎える春となりました。 各地で桜の開花予報が出、大阪は3月25日頃とのこと、暖かいにこしたことはありません。 この 「春よこい」 は新潟県の糸魚川出身の 「相馬」 さんが1924年大正12年、金の鳥社発行の 『雑誌金の鳥』 3月号に発表しました。 「相馬」 さんの娘 「文子」 さん2歳のときの作品、おそらく娘さんのことや故郷の糸魚川のことなど思い浮かべながら書かれたのではないでしょうか、雪国の人たちが繰り広げてきた日常を優しく爽やかに歌っています。 大島
歌ごえはこころの旅 日本の歌童謡編
NO22 「春の小川」 作詞高野 辰之 作曲岡野 貞一
かつてはどこの町にもこのような風景が見られましたが、20世紀のわずか100年で日本各地の自然は見るも無残な姿になっています。 便利さや お金につられ私達がこのような日本にしてしまいました。 実は、先日3泊4日の日程で、中国の西安へ 「兵馬俑」 を見に行きました。 2200年以上前に作られた世界遺産は一見の価値がありました。 しかし 「西安」 の街はすさまじい勢いで、田畑をつぶし人を追い出して何百という高層建築が進められ、そのせいか 砂ほこりは舞い上がり空気は汚れ、空は20〜30年前の大阪と同じくどんよりとし、その上 黄砂が舞い降りていて、長居してたら寿命が縮む思いでした。
歌に戻ります 「うさぎおいし かの山」 の 「ふるさと」 のコンビ、作詞 「高野辰之」 作曲 「岡野貞一」 と書いていますが定かではありません。 先の 「歌の旅」 でふれましたように、この頃の多くの唱歌は作者不詳の条件で作品を国に売っていますので、作者は名のりを上げられませんでした。 歌詞は三度変更され、1947年には何故か3番が削除されました。その3番を紹介します。 《 春の小川は さらさら流る 歌の上手よ いとしき子ども 声をそろえて 小川の歌を うたへうたへと ささやく如く 》 1912年大正元年に文部省から発表されて100年今も歌い継がれています。 大島
かつてはどこの町にもこのような風景が見られましたが、20世紀のわずか100年で日本各地の自然は見るも無残な姿になっています。 便利さや お金につられ私達がこのような日本にしてしまいました。 実は、先日3泊4日の日程で、中国の西安へ 「兵馬俑」 を見に行きました。 2200年以上前に作られた世界遺産は一見の価値がありました。 しかし 「西安」 の街はすさまじい勢いで、田畑をつぶし人を追い出して何百という高層建築が進められ、そのせいか 砂ほこりは舞い上がり空気は汚れ、空は20〜30年前の大阪と同じくどんよりとし、その上 黄砂が舞い降りていて、長居してたら寿命が縮む思いでした。
歌に戻ります 「うさぎおいし かの山」 の 「ふるさと」 のコンビ、作詞 「高野辰之」 作曲 「岡野貞一」 と書いていますが定かではありません。 先の 「歌の旅」 でふれましたように、この頃の多くの唱歌は作者不詳の条件で作品を国に売っていますので、作者は名のりを上げられませんでした。 歌詞は三度変更され、1947年には何故か3番が削除されました。その3番を紹介します。 《 春の小川は さらさら流る 歌の上手よ いとしき子ども 声をそろえて 小川の歌を うたへうたへと ささやく如く 》 1912年大正元年に文部省から発表されて100年今も歌い継がれています。 大島
2010年03月05日
歌ごえはこころの旅 日本の歌童謡編
NO21 「花嫁人形」 作詞蕗谷 虹児 作曲杉山 長谷夫
作詞の 「蕗谷虹児」 は同郷の日本画家 「尾竹竹波」 の内弟子となり、画家としてまたデザイナーとして仕事を始めました。 ある日 「竹下夢二」 を訪ねたことから挿絵画家を目指し、大正11年に創刊された 「令女界」 の挿絵だけでなく原稿の穴埋めをしたり、ある日詩人に代わって詩まで書くことになりました。急遽書いたのが 「花嫁人形」 でした。 この詩に 「杉山 長谷夫」さん が曲を付けました。 発行するにあたり出版社の社長がジャケットに挿絵を書くよう依頼してきましたが、その社長の態度があまりにも横柄だったので断り フランスへ留学に行きました。 帰ってきてレコードを見ると、作詞者の 「蕗谷」 の名前がどこにもなく暫くは作詞者なしで販売されていました。 「蕗谷」は、母16歳の時の子 お母さんは身体が弱く27歳の若くさで亡くなっています。 この 「花嫁人形」 は母 「エツ」 をモデルとしているのでしょうか、彼は 「竹下夢二」 さんを生涯の師として敬い続けたそうです。 大島
作詞の 「蕗谷虹児」 は同郷の日本画家 「尾竹竹波」 の内弟子となり、画家としてまたデザイナーとして仕事を始めました。 ある日 「竹下夢二」 を訪ねたことから挿絵画家を目指し、大正11年に創刊された 「令女界」 の挿絵だけでなく原稿の穴埋めをしたり、ある日詩人に代わって詩まで書くことになりました。急遽書いたのが 「花嫁人形」 でした。 この詩に 「杉山 長谷夫」さん が曲を付けました。 発行するにあたり出版社の社長がジャケットに挿絵を書くよう依頼してきましたが、その社長の態度があまりにも横柄だったので断り フランスへ留学に行きました。 帰ってきてレコードを見ると、作詞者の 「蕗谷」 の名前がどこにもなく暫くは作詞者なしで販売されていました。 「蕗谷」は、母16歳の時の子 お母さんは身体が弱く27歳の若くさで亡くなっています。 この 「花嫁人形」 は母 「エツ」 をモデルとしているのでしょうか、彼は 「竹下夢二」 さんを生涯の師として敬い続けたそうです。 大島