コンクリートの街の住民にとって 虫と言えば 「ゴキブリ」、その 「ゴキブリ」 で思い出しましたが、1年半くらい前、姪の娘が友達から小さい冷蔵庫を貰い、それを我が家で預かることになりました。 その冷蔵庫はきれいに掃除をしていたのですが、裏側のコンデンサーあたりが 「ゴキブリ」 の巣になっており 大きいのから小さいのまでいてゾーとしました。 見つけたのは退治したり 「ゴキブリホイホイ」 など各部屋におきましたが どうなったのでしょう? それから見ていません。 さて、1910年明治43年7月発行の 『尋常小学読本唱歌』 に発表された 「虫の声」 は、鳴き声や虫の動作を繰り返し書いています、これは子供たちが理解をし易いように意識して書いたものです。 ただ2番の歌詞が昭和22年に変更されています。 《 きり きり きり きり きりぎりす 》 が 《 きり きり きり きり こうろぎや 》 に・・・ 街でも虫の声は公園や路地で聞こえます、一度耳をすませて聞いてみようと思っています。 大島
2010年03月22日
歌ごえはこころの旅 日本の歌童謡編
NO26 「虫の声」 作詞・作曲者不詳
コンクリートの街の住民にとって 虫と言えば 「ゴキブリ」、その 「ゴキブリ」 で思い出しましたが、1年半くらい前、姪の娘が友達から小さい冷蔵庫を貰い、それを我が家で預かることになりました。 その冷蔵庫はきれいに掃除をしていたのですが、裏側のコンデンサーあたりが 「ゴキブリ」 の巣になっており 大きいのから小さいのまでいてゾーとしました。 見つけたのは退治したり 「ゴキブリホイホイ」 など各部屋におきましたが どうなったのでしょう? それから見ていません。 さて、1910年明治43年7月発行の 『尋常小学読本唱歌』 に発表された 「虫の声」 は、鳴き声や虫の動作を繰り返し書いています、これは子供たちが理解をし易いように意識して書いたものです。 ただ2番の歌詞が昭和22年に変更されています。 《 きり きり きり きり きりぎりす 》 が 《 きり きり きり きり こうろぎや 》 に・・・ 街でも虫の声は公園や路地で聞こえます、一度耳をすませて聞いてみようと思っています。 大島
コンクリートの街の住民にとって 虫と言えば 「ゴキブリ」、その 「ゴキブリ」 で思い出しましたが、1年半くらい前、姪の娘が友達から小さい冷蔵庫を貰い、それを我が家で預かることになりました。 その冷蔵庫はきれいに掃除をしていたのですが、裏側のコンデンサーあたりが 「ゴキブリ」 の巣になっており 大きいのから小さいのまでいてゾーとしました。 見つけたのは退治したり 「ゴキブリホイホイ」 など各部屋におきましたが どうなったのでしょう? それから見ていません。 さて、1910年明治43年7月発行の 『尋常小学読本唱歌』 に発表された 「虫の声」 は、鳴き声や虫の動作を繰り返し書いています、これは子供たちが理解をし易いように意識して書いたものです。 ただ2番の歌詞が昭和22年に変更されています。 《 きり きり きり きり きりぎりす 》 が 《 きり きり きり きり こうろぎや 》 に・・・ 街でも虫の声は公園や路地で聞こえます、一度耳をすませて聞いてみようと思っています。 大島
歌ごえはこころの旅 日本の歌童謡編
NO25 「港」 作詞旗野 十一郎・林 柳波 作曲吉田 信太
1896年明治29年に 『新編教育唱歌集』 に発表されたこの 「港」 は、モデルの広島県広島港の (宇品築港) にぎわいを 「旗野」 さんが実際に見られたのでしょう。 この宇品築港は元薩摩藩士 (現鹿児島県) 出身の 「千田 貞暁」 が県令に任命されて赴任した広島県の港の余りにもおそまつさに、1884年港・築港・干拓の工事に取り掛かりました。 工事は思うようにいかず、費用もかさみ 「千田」 は完成を見ずに1889年 「計画に疎漏」 があったとして新潟県へ左遷されましたが 港は同年に完成しました。 当初は無用の長物とまで言われていましたが、「日清戦争」 が始まるや ここから物資や兵士の出航、流通にと大きな役割を果たすようになりました。 港には多くの船が停泊しています。 そのさまを作者 「旗野」 さんは書き、歌詞は 「林 柳波」 によって書き改められました。 前の歌詞は 《 林なしたる 帆柱に 花と見まごう 船旗印 積荷の歌も にぎわいて 港はいつも 春なれや 》 当時にしては珍しく、三拍子で書かれています。 大島
1896年明治29年に 『新編教育唱歌集』 に発表されたこの 「港」 は、モデルの広島県広島港の (宇品築港) にぎわいを 「旗野」 さんが実際に見られたのでしょう。 この宇品築港は元薩摩藩士 (現鹿児島県) 出身の 「千田 貞暁」 が県令に任命されて赴任した広島県の港の余りにもおそまつさに、1884年港・築港・干拓の工事に取り掛かりました。 工事は思うようにいかず、費用もかさみ 「千田」 は完成を見ずに1889年 「計画に疎漏」 があったとして新潟県へ左遷されましたが 港は同年に完成しました。 当初は無用の長物とまで言われていましたが、「日清戦争」 が始まるや ここから物資や兵士の出航、流通にと大きな役割を果たすようになりました。 港には多くの船が停泊しています。 そのさまを作者 「旗野」 さんは書き、歌詞は 「林 柳波」 によって書き改められました。 前の歌詞は 《 林なしたる 帆柱に 花と見まごう 船旗印 積荷の歌も にぎわいて 港はいつも 春なれや 》 当時にしては珍しく、三拍子で書かれています。 大島
2010年03月19日
歌ごえはこころの旅 日本の歌童謡編
NO24 「富士の山」 作曲者不詳
富士山、いつ見ても雄大で綺麗それでいて気高い世界に誇れる山です。 「富士山」 とも題する 「富士の山」 は1910年明治43年の 『尋常小学読本唱歌』 に作者不詳と紹介されましたが、日本の児童文学の先駆者として知られる 「厳谷小波」 本名 「巌谷季雄」 さんが書かれました。 「巌谷」 さんは滋賀県水口町の出身、アンデルセンやグリムなど外国の児童文学を日本に紹介された方、また 青少年の文化に著名な役割を果たした人・団体に贈る 『巌谷小波文芸賞』 を設立された方として有名です。 《 あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見下ろして かみなりさまを 下に聞く 富士は日本一の山 》 いつまでも綺麗な姿のままあってほしいものですね。 大島
富士山、いつ見ても雄大で綺麗それでいて気高い世界に誇れる山です。 「富士山」 とも題する 「富士の山」 は1910年明治43年の 『尋常小学読本唱歌』 に作者不詳と紹介されましたが、日本の児童文学の先駆者として知られる 「厳谷小波」 本名 「巌谷季雄」 さんが書かれました。 「巌谷」 さんは滋賀県水口町の出身、アンデルセンやグリムなど外国の児童文学を日本に紹介された方、また 青少年の文化に著名な役割を果たした人・団体に贈る 『巌谷小波文芸賞』 を設立された方として有名です。 《 あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見下ろして かみなりさまを 下に聞く 富士は日本一の山 》 いつまでも綺麗な姿のままあってほしいものですね。 大島