作られたのは日本は日露戦争の真っ最中、1905年明治38年頃のことです。 作曲のアルスタインは、母校の校庭の隅に紅い実と白い花を咲かせる林檎の木が気にかかって仕方がありません。 ある日のこと、友人のウイルアムスと木の下で語り合っている時、突然このメロディーと詩が浮かんで来たそうです。 林檎の木の下で ・・・ ウイリアムスに聞かせ、少しづつ変えながら出来た歌が 「林檎の木の下で」 です。 これまで歌など作ったことも無い二人は、早速担当の先生に聞いて貰いました。 音楽を教えていた先生は、それを採譜してピアノで弾き 《 林檎の木の下で また逢いましょう 黄昏 赤い夕陽 西に沈むころに たのしく頬寄せて 恋を囁きましょう 真紅に燃える想い 林檎の実のように 》 の歌が出来たのです。 アルスタインとウイリアムスは、先生の詩をもとに書き直し まだラジオ局が無い頃なので自分達だけで歌っていました。
1920年頃からアメリカではラジオ民間放送が始まっていましたが、この頃のラジオの役割は、政治的・経済的そして国際的なことが主な役割であるため、電波による発表は後年になるまで放送されませんでした。 しかし歌は口伝えで広まって行き、日本では1937年ディック・ミネ 本名 三根徳一さんが一部編曲して 「林檎の木の下で」 裏面には 「黒い瞳」 をのせて歌い大ヒットとなりました。 ディックさんは1908年10月5日生まれ、小・中学校の校長の父に非常に厳格に育てられたそうですが、立教大学卒業後 音楽の道に入り、1934年にはタンゴ劇団テッド・モンパレス・タンゴ・アンサンブルの歌手をしていた時、淡谷のり子さんに見出されテイチク・レコードへ、最初に出したレコード 「ダイナ」 が大ヒット! スターへとなっていきました。 この 「林檎の木の下で」 は、日本の流行歌のような、またシャンソンのようなハワイヤンのようなジャズのような 色んな要素が含まれた不思議で素敵な歌なのです。 大島