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2010年07月04日

歌ごえはこころの旅 世界の歌編

NO139  「林檎の木の下で」  作曲E ・ アルスタイン&H ・ ウイリアムス  作詞柏木 みのる
  作られたのは日本は日露戦争の真っ最中、1905年明治38年頃のことです。 作曲のアルスタインは、母校の校庭の隅に紅い実と白い花を咲かせる林檎の木が気にかかって仕方がありません。 ある日のこと、友人のウイルアムスと木の下で語り合っている時、突然このメロディーと詩が浮かんで来たそうです。 林檎の木の下で ・・・ ウイリアムスに聞かせ、少しづつ変えながら出来た歌が 「林檎の木の下で」 です。 これまで歌など作ったことも無い二人は、早速担当の先生に聞いて貰いました。 音楽を教えていた先生は、それを採譜してピアノで弾き 《 林檎の木の下で また逢いましょう 黄昏 赤い夕陽 西に沈むころに たのしく頬寄せて 恋を囁きましょう 真紅に燃える想い 林檎の実のように 》 の歌が出来たのです。 アルスタインとウイリアムスは、先生の詩をもとに書き直し まだラジオ局が無い頃なので自分達だけで歌っていました。 
1920年頃からアメリカではラジオ民間放送が始まっていましたが、この頃のラジオの役割は、政治的・経済的そして国際的なことが主な役割であるため、電波による発表は後年になるまで放送されませんでした。 しかし歌は口伝えで広まって行き、日本では1937年ディック・ミネ 本名 三根徳一さんが一部編曲して 「林檎の木の下で」 裏面には 「黒い瞳」 をのせて歌い大ヒットとなりました。 ディックさんは1908年10月5日生まれ、小・中学校の校長の父に非常に厳格に育てられたそうですが、立教大学卒業後 音楽の道に入り、1934年にはタンゴ劇団テッド・モンパレス・タンゴ・アンサンブルの歌手をしていた時、淡谷のり子さんに見出されテイチク・レコード、最初に出したレコード 「ダイナ」 が大ヒット! スターへとなっていきました。  この 「林檎の木の下で」 は、日本の流行歌のような、またシャンソンのようなハワイヤンのようなジャズのような 色んな要素が含まれた不思議で素敵な歌なのです。  大島かわいい
                                                                                                                
  
posted by たかピー at 15:28| 大阪 ☀| Comment(0) | 世界の歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

歌ごえはこころの旅 世界の歌編

NO138  「夜明けまで踊りたい」  作詞ラーナー  作曲ローウェイ
   新歌集に追加した外国曲の中でも軽快でとても楽しい歌の一つとして、歌声仲間の愛唱歌となり嬉しく思っています。 この歌が出来たのが1956年昭和32年のこと、原作者はジョージ・バーナード・シヨーの戯曲ピグマリオンをブロードウェイのミュージカルに仕上げました。 主役のイライザ・ドゥーリトルを演じたのが、ジュリー・アンドリュースでした。 これが評判を呼び映画化されることになりました。 1964年昭和40年に 『 My Fair Lady 』 私は淑女題して作られました。 監督は「ジョージ・キローカ」 脚本「アラン・ジェイ・ラーナー」 音楽「アンドレ・ブレヴィン」 主演女優「オードリー・ヘップパーン」 主演男優「レックス・ハリスン」、この映画は投資額17,000,000ドルでしたが、収入はそれを大きく上回り 72,000,000ドルと大成功しました。 当時は1ドル360円ですので莫大な利益をあげました。 舞台や映画を見られた方もおられると思いますが、少しだけお話ししましょう。 挿入曲は全部で13曲、 踊り明かそう・夜明けまで踊りたい・運がよけりゃ などなど。 
花売り娘
のイライザは家が貧しかった為 学校に行けず正しい英語が使えません。 その正しい英語を教えているヒギンス教授が、イライザにそんな言葉は使わないほうが良いと注意します。 イライザはそれじゃ正しい言葉を教えてくれと教授の家に押しかけて来ました。 教授は断りますが、居合わせたヒギンスの友人が、もし彼女がレディーになれたら君が望むものをあげると約束します。 それからヒギンスの特訓が始まります。 教養を持つために先ず言葉使い、態度、歩き方、ダンス、表情、化粧 ・・・ など、見る見るイライザは変わって行きました。 ある日、ヒギンスはイライザを上流社会のパーティに連れていった所、誰もがイライザの美しさに目を見張ります。 あの娘は誰だ、どこの娘だと聞こえて来ます。 ヒギンス教授は見事にレディーを作り上げると共に、イライザを手放すことが出来ない程 愛してしまっていたのです。 そしてイライザが歌いました 『 I Could Have Danced All Night 』 夜明けまで踊り明かそう 夜明けまでも 踊りながら 話しましょう 貴方の手に 抱かれながら 夢をみたい ・・・ 素敵な映画で とても幸せになる歌でした。  大島かわいい
                                                                                                                
  
posted by たかピー at 14:30| 大阪 ☀| Comment(0) | 世界の歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

歌ごえはこころの旅 世界の歌編

NO137  「雪山讃歌」   アメリカ民謡  作詞西堀 栄三郎
   かつて山登りや 山行したりした時よく雪山讃歌を歌い、また山から降りて歌声喫茶へ寄り、またもや歌ったものです。 この歌は、歌ごえはこころの旅 世界の歌編 NO73 で紹介をしましたいとしのクレメンタインが原曲であります。 この歌詞ができたのは1927年昭和2年1月、京都帝大(現京大)山岳部は山が荒れていたため、麓の嬬恋村鹿沼温泉で待機していた山岳部の連中が、西堀さん何か歌を作ってみんなで歌おうと言ってきました。 西堀は、当時みんなの愛唱歌 《 Oh My Darling Clemenntine 》 いとしのクレメンタインのメロディーを口ずさみながら思うままに書いていったのがこの 「雪山讃歌」 であります。 当初は作者不詳として広まっていましたが京大教授 桑原武夫さんが、我々の先輩 西堀栄三郎さんが書いたとして著作権の手続きをとり、それ以後 印税は京大山岳部に入るようになり、その後 山岳部の財政状況はよくなったそうです。  大島かわいい

                                                                                                       
  
posted by たかピー at 13:25| 大阪 ☁| Comment(0) | 世界の歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする