かつて山登りや 山行したりした時よく雪山讃歌を歌い、また山から降りて歌声喫茶へ寄り、またもや歌ったものです。 この歌は、歌ごえはこころの旅 世界の歌編 NO73 で紹介をしましたいとしのクレメンタインが原曲であります。 この歌詞ができたのは1927年昭和2年1月、京都帝大(現京大)山岳部は山が荒れていたため、麓の嬬恋村鹿沼温泉で待機していた山岳部の連中が、西堀さん何か歌を作ってみんなで歌おうと言ってきました。 西堀は、当時みんなの愛唱歌 《 Oh My Darling Clemenntine 》 いとしのクレメンタインのメロディーを口ずさみながら思うままに書いていったのがこの 「雪山讃歌」 であります。 当初は作者不詳として広まっていましたが京大教授 桑原武夫さんが、我々の先輩 西堀栄三郎さんが書いたとして著作権の手続きをとり、それ以後 印税は京大山岳部に入るようになり、その後 山岳部の財政状況はよくなったそうです。 大島
2010年07月04日
歌ごえはこころの旅 世界の歌編
NO137 「雪山讃歌」 アメリカ民謡 作詞西堀 栄三郎
かつて山登りや 山行したりした時よく雪山讃歌を歌い、また山から降りて歌声喫茶へ寄り、またもや歌ったものです。 この歌は、歌ごえはこころの旅 世界の歌編 NO73 で紹介をしましたいとしのクレメンタインが原曲であります。 この歌詞ができたのは1927年昭和2年1月、京都帝大(現京大)山岳部は山が荒れていたため、麓の嬬恋村鹿沼温泉で待機していた山岳部の連中が、西堀さん何か歌を作ってみんなで歌おうと言ってきました。 西堀は、当時みんなの愛唱歌 《 Oh My Darling Clemenntine 》 いとしのクレメンタインのメロディーを口ずさみながら思うままに書いていったのがこの 「雪山讃歌」 であります。 当初は作者不詳として広まっていましたが京大教授 桑原武夫さんが、我々の先輩 西堀栄三郎さんが書いたとして著作権の手続きをとり、それ以後 印税は京大山岳部に入るようになり、その後 山岳部の財政状況はよくなったそうです。 大島
かつて山登りや 山行したりした時よく雪山讃歌を歌い、また山から降りて歌声喫茶へ寄り、またもや歌ったものです。 この歌は、歌ごえはこころの旅 世界の歌編 NO73 で紹介をしましたいとしのクレメンタインが原曲であります。 この歌詞ができたのは1927年昭和2年1月、京都帝大(現京大)山岳部は山が荒れていたため、麓の嬬恋村鹿沼温泉で待機していた山岳部の連中が、西堀さん何か歌を作ってみんなで歌おうと言ってきました。 西堀は、当時みんなの愛唱歌 《 Oh My Darling Clemenntine 》 いとしのクレメンタインのメロディーを口ずさみながら思うままに書いていったのがこの 「雪山讃歌」 であります。 当初は作者不詳として広まっていましたが京大教授 桑原武夫さんが、我々の先輩 西堀栄三郎さんが書いたとして著作権の手続きをとり、それ以後 印税は京大山岳部に入るようになり、その後 山岳部の財政状況はよくなったそうです。 大島
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